第10回「いじめ・自殺防止作文・ポスター・標語・ゆるキャラ・楽曲」コンテスト


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最優秀賞受賞作品
「それでも僕が生きた理由」
蒼  


 どうしてあの時死ねなかったのかと、今になっても苦しむ時があります。
 僕はかつていじめを受けていました。はたしてそれが本当にいじめだったのか、今となっては証明する手だてがありません。ただ、毎日のように汚物まがいの扱いを受け、一日に何度も「死ね」だの「消えろ」だのと言われるのは、決して正常な人間関係ではないでしょう。
 どうして僕がターゲットにされたのか、これも今となっては証明のしようがありません。もしかしたら原因は僕自身にあったのかもしれない。身なりに気を使わなかったから、空気を読んで行動できなかったから。非常識な言動をしてしまったから。あるいは、ほんの些細な冗談を、僕が真に受けてしまったから。あれから二〇年近く経った今でも、悪いのは自分ではなかったのかと自分を責める事があります。
 それだけ経ったのならいい加減吹っ切れようと思われるかもしれません。正直なところ僕自身も吹っ切りたいと思います。けれど過去にあった事をなかった事にはできないのです。僕の記憶にあの日々の出来事が残っている限り、すべて忘れて元通りの生活をする事などできないのです。
 あの頃、僕は本気で死にたい、あるいは消えてしまいたいと思っていました。自分など生まれてこなければよかった、とも。自殺に踏み切らなかったのは、単に死ぬのも怖かったからです。「死にたくなる程辛く苦しい」という気持ちを誰にも打ち明けられず、かと言って本当に生から逃げ出すこともできず、ひたすら地獄のような日々を耐えていました。
 僕の地獄は、中学二年生の春に終わりました。当時の担任の先生の働きかけによるものです。相手方(と言っても不特定多数にやられていたので、どれだけの人数にかはわかりません)に働きかけてくれたのです。具体的に何をどうしたのか、尋ねる機会がないまま先生と別れてしまったので、今となってはわかりません。もしかしたら、学年の他の先生方と情報共有したとか、直接的な対応以外の事もしたのかもしれません。とにかく、直接的な地獄はそこで終わったのですが、問題はその後でした。
 先に少し書いたとおり、最終的に不特定多数の同級生からやられました。だから、周囲がすべて敵のように思えたのです。結果、人を信頼できなくなりました。他人に踏み込むのも、踏み込まれるのも怖いです。
 異性からやられる事が多かったので、恋愛ができなくなりました。異性が相手でも同性が相手でも、他人に恋愛感情を持てません。人間不信の影響も、少なからずあると思います。
 何より、「死にたい」「消えたい」と思いながら日々を過ごしてきた僕には、将来どんな風に生きたいかと言う明確なビジョンがありませんでした。これでは進路選択も何もあったものではありません。
 確かに、僕のいじめは終わりました。けれど、後遺症じみたものは今も残っているのです。それは時間の流れだけでは解決できるようなものではなかったのです。

 けれど僕は、今もまだ生きています。
 今も苦しみがなくなったわけではありません。何度も「どうしてあの時死ねなかったのか」と悩んだ事がありました。
 でも、今ここで死んだら僕自身が報われないのです。何より、ほんのわずかな時間でしたが、僕にも生と未来に希望を見た時が確かにあったのです。
 あの地獄が終わった後、僕は進学し、そしてそこで「仲間」と呼べる存在と出会いました。記憶する限りでは初めて、僕は他者と対等な存在として扱われました。汚物扱いが続き、生きている事さえ否定され続けた僕にとって、それがどれだけ嬉しかったか。そしてその時に思ったのです。「生きていてもいいんじゃないか」「未来に希望を持ってもいいんじゃないか」と。
 今も死にたくなる程の苦しみにおそわれる事があります。でも、ここで生を諦めるわけにはいかないのです。何故なら、ここで諦めてしまったら、かつて未来を信じた僕を、僕自身が裏切ってしまう事になるからです。過去の僕だって、まさか信じたはずの未来の自分に裏切られたくはないでしょう。
 かつて未来を信じた事実を嘘にしてはいけない。あの信頼を、僕自身だけは裏切ってはいけない。その意地で生きているようなものなのです。

 僕は僕の経験した事を、立ち直りの美談だとは思っていません。美談として語るつもりもありません。
 ただ、これだけは断言するつもりです。たとえ理由が何であれ、いじめられる側は欠片も悪くないのです。いじめはする方が悪いのです。たとえその原因がいじめを受けた側にあったとしても、それが人としての尊厳を踏みにじられていい理由にはならないのです。
 僕は、あの時自分を攻撃した彼らを、今でも許せそうにありません。憎んだり恨んだりはしていませんが、それはその手の感情にエネルギーを使いたくないからという理由であって、許すとはまた別の話なのです。仮に今彼らから謝罪を受けたとしても、「気にするな」とはとても言えそうにありません。それをしてしまったら、あの日々を生き抜いて今も生き続けている僕が報われないのです。

 ここまで読むのに、さぞエネルギーを使ったことでしょう。お読みいただきありがとうございました。その上で、お読みいただいているあなたに、ひとつお願いがあります。
 もしあなたの近くに、例えばクラスや部活や、習い事や、あるいは兄弟姉妹や親戚にいじめで苦しんでいる人がいたら、そしてあなたがその相手を気にかけ力になりたいと思うなら、どうかそれを言葉にして本人に伝えてあげてください。「自分はあなたの味方だ」と。
 僕があの地獄に負けなかった一番の理由は、渦中にいる時にあるクラスメイトが声をかけてくれたからです。それまでほとんど会話をした事がなかったのに、そのクラスメイトは事情を察してくれていました。そしてその上で、僕の味方だと言ってくれたのです。その一言で、僕はずいぶん救われました。そのクラスメイトの事を、僕は今でも恩人だと思っています。
 いじめの渦中にいる人間は、周囲がすべて敵のように見えています。他者から向けられる親愛や共感も届きにくくなっています。
 だから、言葉や態度で味方だと示してください。いじめられている当事者がなかなか心を開かなかったとしても、どうかあなたにできる範囲で、その人の味方でいてあげてください。
 自分は一人ではない。味方や仲間は確かにいる。ありきたりかもしれませんが、そう感じる事で折れずに済む心が、確かにあるのです。